日本の紅茶 地紅茶ブーム

日本の紅茶は、1992年の生産量は、統計できないほどに落ち込んでしまった。生産量0tということである。しかしながらペットボトル「午後の紅茶」の影響もあり、紅茶の輸入量、国内消費量は平成に入っても少しずつ伸びている。

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平成元年、日本の紅茶発祥の地である静岡市丸子の村松二六氏が和紅茶復活のために立ち上がり「丸子紅茶」の生産を開始する。

日本の紅茶が衰退期になっても和紅茶を作り続けていた生産者が全国には点在していた。静岡では、昔からの製法を守り抜いている「石原園」などがあった。また「水車むら」など長年紅茶作りをしている生産者もあった。2002年第一回全国地紅茶サミットが鳥取県大山町で開催された。これ以降毎年地紅茶サミットは開催されている。2010年静岡市丸子の「駿河匠宿」を中心に開催されたサミットは、関係者が驚くほどの来場者に、改めて国産紅茶への関心の高さを知らしめた。

2000年代に入り新たに紅茶を作り始めたのは、無農薬でお茶の栽培を始めた茶園であった。新茶は良いが、2番茶では虫がつきやすく、見た目を重視している緑茶の販売では、無農薬茶は低級品に扱われてしまう。そのため、ほうじ茶などに加工するしかなく付加価値を高める為に紅茶の生産を開始した。

さらに緑茶の価格低迷により、2番茶でも売れるお茶を探していた茶農家、茶商が付加価値のある紅茶の生産を開始した。中には電話だけで製造方法を問い合わせ、商品化してしまった生産者もいる。和紅茶の商品が増えることは、喜ばしいが品質のバラツキが著しく表れてしまった。まじめな生産者は毎年、品質のレベルアップのために試行錯誤を繰り返し紅茶を生産するのだが、年により同じ茶樹からの生産でも全く味が異なった紅茶が登場してしまった。

同じ品質を望む消費者にとって、国産紅茶はインド、スリランカの紅茶には遠く及ばないというイメージを植え付けてしまった可能性がある。

現在は、ブーム初期の混沌とした状態を抜け出し、ある程度安定した味が望めるようになっている。

お茶は嗜好品であり、個別の評価は差し控えたいが、やはり紅茶品種(紅富貴、べにひかりなど名前にべにがつく茶品種)が優れており、次に独特の香りがある品種(藤かおり、さやまかおり等)が続く。在来種と呼ばれる昔からあるお茶で作った紅茶も良いものが多い。

あまりと思えるのは最多の栽培面積を誇る茶品種「やぶきた」で作られた紅茶である。いかにも、「余った茶葉で作ってみました」と思えるものもあり、青臭さが残ったものもあり品質が安定していない。しかしながら同じやぶきた種で作った紅茶でも「貴婦人」など紅茶通をうならせるものも存在している。

べにふうきで生産され、本場英国で認められた夢ふうきなど、インド、セイロンの紅茶と肩を並べる和紅茶も登場してきている。花粉症に有効な「メチル化カテキン」を多く含むということで、茶品種「べにふうき」の栽培面積は拡大している。メチル化カテキンは緑茶でないと含まれず紅茶にすると失われてしまう。このため緑茶や粉末での商品が多いが、早く「べにふうき」が日本が誇る紅茶品種であることに気がつき、べにふうき紅茶の生産を拡大してほしものである。

 

 

日本の紅茶 最盛期

昭和初期に日本の紅茶は、全盛期を迎える。紅茶生産国のインド、セイロンなどが昭和8年より5年間国際茶輸出制限協定を結び茶の輸出の制限をした。これは世界恐慌のあおりを受け紅茶の在庫が生じていた生産国が、在庫と価格を調整した結果により消費国は、協定に加盟していない安価で入手可能な日本の紅茶を輸入した。

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しかしながら、輸出制限協定が解除されると日本の紅茶輸出量は減少していった。さらに第二次世界大戦突入と共に、減少に拍車がかかった。

戦後、生産国の荒廃もあり、紅茶の生産は復活していく。しかし昭和29年をピークに国内の緑茶の需要の拡大、生産国の復興などにより紅茶の生産、輸出量は急激に下落して行った。昭和46年の紅茶輸入自由化により国産紅茶の見る影はなくなってしまった。

これらのことにより、日本の紅茶は価格に見合った品質であったのかが疑わしい。世界品質の紅茶もあったが、どちらかと言うと流通量が不足した時、日本の紅茶はもてはやされたようである。国産紅茶の品質の安定は現在でも問題であり、生産年、生産者により品質のバラツキが多すぎるように感じる。

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百年原木の高草紅茶の茶園

高草紅茶は、日本紅茶最盛期の頃の茶樹で現在も紅茶を生産しています。

当時に作られた 茶畑は、牧の原で見られるような一般的なカマボコの形をしていません。真っ直ぐに植えられていないのが写真でもわかりますが、このため効率の良い機械が使えず、平刈りという方法で刈り取りを行います。その関係で刈り取った上部が平らになります。

お茶の木は、30年程度で生産性が落ちてくるために植え替えが行われます。その改植も行われず、これだけ古い茶畑が残っている場所は静岡県内でも私の知る限りではありません。大茶樹のように1本だけの古いお茶の木はありますがね。

 

日本の紅茶 台湾編

日本の紅茶最盛期に行く前に、台湾で始まった日本の紅茶があります。

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台湾が日本の統治下になったことにより、台湾総督府によって明治36年に茶樹栽培試験場がが設立され、紅茶の研究が始まった。また、三井合名会社(現在の日東紅茶)が明治32年に台北、桃園などに大規模茶園を開拓し、茶の生産を開始した。

台湾では、昭和の始めに新しい茶園、製茶工場が続々と増えて行き、品質も良かったことから国際的に認められていった。昭和15年には生産量も3100tにもなった。

しかしながら、太平洋戦争の激化で食料増産などにより茶園も廃止され生産量を落として行った。昭和18年には、1500tまでに減った紅茶生産量は太平洋戦争の終結と共に台湾の茶事業自体が終焉を迎えてしまった。

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台湾の紅茶は、現在も生産を続けており、新しい茶品種での紅茶も出回っている。

 

日本の紅茶 再開期

大正時代、第一次世界大戦が勃発すると茶生産国(東洋)から、消費国(西洋)への輸出が滞り、日本茶輸出は好況を呈した。

大正6年には大谷嘉兵衛らの手により、「日本紅茶株式会社」が静岡市に設立された。このことにより日本紅茶の生産、輸出体制が整えられた。

しかしながら、第一次世界大戦終結後には、インド、セイロンの紅茶が復興し、消費国に大量に流れ込み日本の紅茶は再び低迷期に突入してしまった。

この頃、大正7年には、静岡にゆかりのダンカン・ジョセフ・マッケンジーが来日し貿易商社A.P.アーウィン商会の日本支社で日本茶の輸出拡大と静岡茶業の発展に貢献した。

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静岡市高松海岸にある旧マッケンジー邸は、アメリカンスタイルの洋館で、大型電気冷蔵庫、ガスレンジなど、当時ほんとにあったのかな?と思わせる装備を兼ね備えている。スパニッシュコロニアルという形式の建物である。

再び、低迷期に突入した日本の紅茶は、昭和初期に最盛期を迎えることになる。

 

日本の紅茶の始まり

明治初期の日本では、輸出政策のもと紅茶が世界の需要が多いことを理由に、紅茶の製造を推奨した。明治7年には「紅茶製法書」を配布し、明治8年には大分、熊本に「紅茶製造伝習所」を設け、中国から2名の紅茶製造技術者を招き紅茶の製造、伝習をさせた。

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静岡市駿河区丸子にある多田元吉翁碑

多田元吉は、徳川家の幕臣だったが明治になり現在の静岡市駿河区丸子でお茶の栽培を始めていた。
明治8年清国へ派遣され栽培や製造法を調査し、機器や種子を持ち帰った。
明治9年今度はインドに赴き、日本人として初めてダージリンやアッサムなどの奥地に入り、栽培、製造、経営法、アッサム種をはじめとする種子の収集などを行って日本へ持ち帰り、帰国後は全国各地を飛び回って知識を広めた。

明治11年には「紅茶製法伝習規則」を設け紅茶製法を伝習させ徐々に生産量も増加していった。「紅茶製法伝習規則」を廃止した明治23年には、生産量も175tに増加した。

イギリスに輸出された日本紅茶は、イギリスには適さず主にアメリカに輸出されていた。しかしながら不正茶の混入、インドとの価格競争が激化したことにより、明治23年をピークに紅茶生産量は減少に転じてしまう。

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静岡市丸子の起樹天満宮には多田元吉が持ち帰った紅茶の原木があります。

また国産紅茶品種「ただにしき」「べにほまれ」は、多田元吉が持ち帰ったインドアッサム系の系譜です。

台湾紅茶の父

台湾南投県、観光地で有名な日月譚の近くに茶業改良場魚池分場があります。

ここに台湾紅茶の父と呼ばれた新井耕吉郎技師の記念碑があります。

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碑の説明文には、「台湾紅茶的守護者 新井耕吉郎」と書いてある。

新井耕吉郎の紹介

新井耕吉郎技師は、日本の群馬県生まれで、1926年台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に勤務、1936年魚池紅茶試験支所の成立前、支所創立の仕事に参加し、支所建設の場所、地理環境、土壌、気候と製茶品質等の要素をを評価し、最後に海抜八百余メートルで、日月譚湖畔の水社村猫蘭山を設所場所と決定、台湾紅茶産業の発展で設所した。

新井支所長は魚池紅茶試験支所の最後の日本人の支所長で、第二次世界大戦の間も職を勤める、彼は大きく台湾経済に影響を興えた、徴兵も頻繁で、試験費用と労働も欠乏する中で、紅茶の各種研究と普及業務に当たり、積極的に業務を推進された事は、尊敬に耐えない次第である。

新井支所長は1947年に病死される。終戦後、首任となった台湾茶業公司総経理陳為禎支所長は、1949年氏の功績を記念し、茶園に記念碑を建てる、これをもって、故き新井耕吉郎支所長が、台湾紅茶産業に対して偉大な貢献をしたことを記念する。

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台湾の人々は、新井耕吉郎技師の恩を忘れず末永く感謝されています。

台湾紅茶は、生産量が少なくあまりメジャーではありませんが、ミントの香りがする台湾18号(紅玉紅茶)と台湾8号(アッサム)が中では有名です。18号は好き嫌いが出るかもしれませんが、8号は誰が飲んでも美味しい紅茶です。

台湾には、東方美人(オリエンタルビューティー)と呼ばれる烏龍茶があります。これは発酵度が非常高く紅茶と呼んでも差し支えないお茶です。マスカットフレーバーの香りがする高級品は、驚くほどの高価(100g 数十万円)で取引されています。中級品でも現地価格で100g 3000円位はします。私も大好きなお茶ですが、良い物はなかなか口には入りません。

今の国産紅茶も、幾多の先人たちの努力により、発展してきたことに感謝するしだいです。

 

日本の紅茶

静岡市駿河区丸子の長源寺に多田元吉氏のお墓があります。
その下に日本紅茶の原木があります。
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多田元吉さんは徳川家の幕臣でしたが明治になり静岡丸子でお茶の栽培を始めていました。
明治8年清国へ派遣され栽培や製造法を調査し、機器や種子を持ち帰りました。
明治9年今度はインドに赴きます。
日本人として初めてダージリンやアッサムなどの奥地に入り、栽培、製造、経営法、アッサム種をはじめとする種 子の収集などを行って日本へ持ち帰りました。
帰国後は全国各地を飛び回って知識を広めました。
このような経緯から 静岡は最盛期の昭和30年には国産紅茶の約96%を生産しました。
昭和46年に紅茶の輸入規制がなくなり外国産の紅茶が大量に輸入されるようになり、
国産茶葉の生産はほとんどなくなりました。
近年、丸子紅茶の村松二六さんらの努力により生産量が増えつつあります。
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お墓のさらに下側の起樹天満宮には多田元吉翁碑が建てられています。